ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

あたりまえでいられることに感謝する

新型コロナの影響でここ数か月、 様々な人間模様が見えた。

多くは怒りであったが 「怒ったところで何も変わらない」ものであり、 怒りはあきらめと虚しさに変わってしまった。

そんなものを横目に私の汚い心に浮かんだものがあった。

それは「感謝」だった。

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あたりまえでいられること

さて、何に感謝をしたのかというと、 あたりまえでいられることである。

マスクが、トイレットロールが陳列されていること。
おおっぴらに遊びに行けること。
職場があり仕事に勤しめること。

今まであたりまえすぎて特に何も思わなかったことに気づいた。 のほほんと、あたりまえを甘受しすぎた現代人ボケである。 自分があたりまえでいられることになんの疑問も抱かなかったツケが今回の教訓ではないかと思う。

必需品が欠乏し、我慢しなければならなかった。 手に入っていたものが手に入らなくなってイラついた。 次第に感染が広まる得体のしれないウィルスに恐怖した。 それが、日本国内でなく世界中で起こったこと。

ココ数十年間起こらなかったことが起こってしまった時、 人間の「汚い部分」が垣間見えた。 嫌になっちゃったけどその反面、今まで通りの暮らしに 表立って見えない人間の活躍があったのだと思うと、 「感謝」が湧き出てきた。

マスクなどを生産する者がいた。
売店に運ぶ者がいた。
陳列する者がいた。

皆がいたからあたりまえだった。
今思えば、それは幸せなことだった。

気づかなかったことに気づけたこと。 それは小さそうに見えて大きな財産かもしれない。 それは雑多なブログに書かれている「有益」なこととは全然違う。

軽い「ありがとう」では足らない大きな感謝。 皆で分かち合うためには皆のために活躍しなければならない。

だって、負けてられないですよね?

労働の意義を再確認する

お金の為。
生活費の為。
自分が、家族が生きる為。

労働とは身の回りの「お金」であった。

しかし中には身銭を切ってこの困難に立ち向かおうとする人もいる。 誰かのために自分を犠牲にして立ち向かうのは簡単ではないと思う。 それは身の回りの「お金」に固執していないからできるのだ、きっと。

「人の役に立ちたい」という気持ちは偽善ではない。 それが本来の労働の意義ではなかろうか。

いつのまにかそんな意義がねじ曲がって、ただの「お金儲け」になってしまっていた。 それに気づいたとき、情けなさがこみあげてきた。

労働もまた「あたりまえ」でしかなかった。 意義を放り投げ、「のほほん」とこなす日常でしかなかった。

今回の世界的な混乱はそれらを見つめなおすキッカケになるのではないか。

ポジティブに考えるなら、 どーせポジティブに考えるなら、 「感謝」することもよかろう。

それが今在るひとから亡くなったひとへの手向け。

さて、負けじと頑張りましょう。

written by 日照ノ秋人 生きるって大変ですね。