ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

現代の子供たちにファミコンのススメ

ファミコンというものがどんなものか、現代では知らない人たちが登場してきました。

ファミコンファミリーコンピューター

ゲームです、つまり。

なあんだ、今回はゲームの話か、このナンパ野郎め!と思う方もいるかもしれませんが、まじめな話です、ボクまじめですから。

みなさん、だれも傷つかない嘘ついてますか?日照ノ秋人です。

ゲームは1日1時間!

現代の小学生同士の遊びとは

遊ぶ約束をし、遊ぶ場所を決め、各々が集合します。 「ニンテンドースイッチ」なるものをもって。

当時のテレビCMで行われていたことをリアルにやっているわけです。

しかし意外なことに、対戦ゲームをやっているのかと思っていたら、各々が別々のゲームをたんたんとやっているらしいのです。

それを他の子が見たり、やらせてもらったりという遊び方をしてるんですね。 テレビCMとはビミョーにちがう形に凄く違和感があります。

その「ボタン」だか「スイッチ」だかを持っていない我が子は「3DS」をもってそのグループでたんたんと自分のゲームをやっているのです。

なぜ「スイッチ」を買わないのか

我が家にはゲームの神様といわれる
「奥方」がゲーム界を仕切っており、
「スイッチはどうぶつの森が出るまで買わぬ!」という掟があるようなのです。

どうぶつの森」で割を食うわが子、かわいそう。

しかし我が家には、幸いにもお友達界隈では誰も持っていないであろうファミコンソフトがずらりと揃っており、いつでもスタンバっている状態なのでした。

スイッチは買ってやれないが、ファミコン(互換機)なら買ってやれる!
ゲーム神の視線をかいくぐり、ゲットしたファミコンを我が子に早速やらせてみたのです。
ファミコン互換機の話は別に書こうと思います。

おもしろいらしい

そりゃそうです。
我々の世代では、それこそが唯一のゲームであり、お友達と遊ぶといえば晴れの日は野球。雨の日はファミコンと決まっておりました。
ファミコンでも野球ゲームをやってましたが・・・)

一番食いつきいいのがピンボール
昔はゲーセンにアナログなピンボールが ありましたが、最近全然見ませんね。

不良のたまり場だからゲーセン行くのは禁止!といっていたZIZYやらBABARやらが今ではメダルをガトリングガンのようにまき散らしてますがね。
※ZIZYやらBABARやらのゲーセン話はまた別に書こうと・・・

そんなシンプルなゲームが、やれスプラトゥーンやらマリオオデッセイやらよりとっつきやすく面白いというんですから、子供ってわからんですね。

そんなファミコンでも昔は大変だったようです。

ゲームは悪!教育委員会が黙ってない!

昔も今も、頭が硬いひとはとことん硬い。やれ、ゲームは頭を悪くするだの骨を溶かすだの、言葉遣いが悪くなるだのいちゃもんをつけて変なイメージを構築しようとするのです。

ファミコンが世に出る前、かなりいちゃもんをつけられたようなのですが、 業界に頭の良いひとがいたんでしょうね。
頭の硬いひとを黙らせる要素をゲームに取り入れます。

すなわち、「ゲームに教育的要素を付加する」ということ。

表向きは「そう言ってみただけ」だったかもしれませんが、昔のゲームであるほど教育的要素がふんだんにもりこまれています。

子供にいろんな感覚を身に着けさせるには遊びながら覚えられる方がよいですもんね。
従って、昔のゲームはパズル的なゲームが多いんです。

特に「先を読む力」と「空想力」が身に着く

押しの一辺倒ではクリアできない。
ある場所で立ち止まらなければいけない。
昔のゲームほど、高度なことができなかったため謎解き要素もシンプルな構造が多かった。

考えて先を読んで想像する、そうしなければクリアできなかった。
攻略本なんかおいそれとなかったので、みんな手探りでトライアンドエラーの日々。

今思い出せば、みんな忍耐力ありましたね。 初めてプレイしていきなりクリアなんてできませんでしたし。
そしてクリアの方法が、人づてに広まっていき、どこどこのだれだれ君は妙に詳しいという変な噂まで流れたものです。

意外と一般教養も身に着く

地図の見方は北が上。

「みなみのどうくつにはおたからが・・・」

という情報で進むのですが、「みなみは下だから下へ行け」とは言われません。
自然に東西南北を覚えていましたね。

買い物のシミュレーション、ヒントとヒントをつなぎあわせる推理、義理と不義理、そんな類もゲームから学べたような気がします。

そうやって教育的要素があるとプレゼンしたんだろう

テレビゲームを世に広めるために、おそらくは教育的要素を武器にプレゼンしたんだと思います。

昔のゲームはその結晶、子供がやっていいんです。

教育を意識したゲーム作りが昔ではあたりまえでしたが(もちろん販売許可を得るために)最近の市民権を獲得してしまったゲームには教育的要素が鳴りを潜め、ただの娯楽になってしまったような気がします。

娯楽なんだから大人がやるために売れればいい。
大人がそそるゲームを作ればいい。
お金を出すのは子供じゃないんだから。

今のゲーム業界はこんなイメージです。

子供向けのゲームは、キャラクター性を前面に押し出したミニゲーム集という傾向があります。

昔ほどゲーム制作の熱意を感じません、我々ファミコン世代には。

マトメ

今思い返すと子供のころの自分は、 忍耐力があったんだなと思います。

パソコンのゲームにしたって、「大戦略」での「comターン」では数時間待つことはざらだし(その間こちらは見てるだけ)三国志では地味に開墾と治水工事をたんたんとやるだけ。

シューティングゲームなんか初見でクリアできない、というかエンドレスだし。(スぺランカーを30周クリアして最終解脱しました)

忍耐力・・・というか愚直な馬鹿野郎でしたね、ワタシ。

上にも書きましたが、「義理と不義理」とか「信頼と裏切り」など、RPGのゲームからずいぶん人間の様々な姿を学んできたような気がします。

同じフィクションなら、小説の活字を読むより昔のファミコンの方がとっつきやすいとおとなになって感じました。

いまでは「リアル」が徹底的に追及されますがフィクションのさらにオリジナルな話で文字を読むゲームがないものかねぇ・・・。

おしまいマイン!