私は「才能」という言葉が嫌いです。
なんですかソレ。
生まれながらに持ってるものですか?
生まれながらにして、能力が違うなんて私、認めませんよ。
みなさん、いい歳こいてますか?
日照ノ秋人です。
不平等じゃないですか?
その「才能」とやら。
見せてもらおうか?
その「才能」とやらを。
(ちょっと言ってみたかっただけ)
そんなものあったら許さんね、神を。
この子には、
野球を上手にやれる才能を与えてやろう。
この子には、
寿司を上手に握れる才能を与えてやろう。
この子には・・・
もういいや、めんどいから何にもなしで。
シーッ!言わないでよ、そりゃね、めんどいよ、神だって。
なあんてことやられていたら、引きずりおろしてひよこの雄と雌を分ける仕事やらせてやるもんね。
売れ残ったハンバーグを丸めてメンチカツ作らせるもんね。
え?油が跳ねる?
大丈夫っしょ、だって神だもん、君。
人によって違う能力の差
人はすべて「努力」によって磨かれるもの。
努力というのは身につけるものに対して真剣に向き合い、考え、行動を起こすことです。
つまり「努力」とは時間がかかります。
自分の時間をどれくらい「努力」に費やしたのか、それによって人の「能力の差」が生まれます。
その努力ができる人に対し、できない人は自分ができないことを棚上げし、「あいつは才能があるからできるんだ」と 皮肉を言います。
つまり「才能」と人が口にすることは
ただの嫉妬です。
能力がある人に「才能がある」と言ってはいけない
「才能」といってしまう皮肉は、「努力」を認めていないことも含んでいます。
努力して能力のあるひとに「才能があるからなぁ」なんて言ってしまうのは、「俺も努力したけど、お前は才能があるから 俺よりも能力があるんだ」と言ってしまうようなもので、その人が見えないところで血のにじむ(この表現も嫌いですが) 努力をしてきたことも、なかったことにしようとしています。
実際に努力をしてきた人が、努力を認めずただ「才能があるから」と言われたらどんな気持ちになるでしょう。
だけど人には向き不向き、器用不器用がある
生まれながらに能力が備わっているのは
不平等だ、コラ!神!と
言ってきましたが、ひとには向き不向き、器用不器用の差は確かに存在します。
人と話すのめっちゃ苦手、だけど絵が得意とか、絵はへたくそ、だけど足が速い!
ボルトだかナットだか!
体、脳の仕組みは人それぞれ違い、 それによる得意不得意が生まれつきあるのでは ないかと思っています。
速く走るには、この足の角度、このタイミングで地面を蹴るだとか、それくらい細かいことも理論でなく感覚で備わっています。
しかし、その程度では一級品にはなりません。 ただ、周りの人よりコツを掴んでるのが速いだけなのです。
コツを掴むまでが第一の努力、それ以降はやっぱりそれに時間を費やす努力。 努力を重ねて、本当の能力となります。
器用貧乏の私の話
私自身運動部出身ですが、身体能力は低く、度重なるケガ(重症)により跳躍力と走るスピードが 訓練により上昇しないという現実に直面し、高校生になったタイミングで運動部に入るのをやめてしまいました。
しかし、小難しい技術が必要な新しいことにチャレンジすると誰よりも早く様になることが多かったタチです。
まあ、身体能力ではみんなに負けるのですぐに追いつき追い越されるのですが。
ひとによって、コツを掴むのが得意、不得意はあるなぁと思ったのですが、私の場合は、ケガしがちとはいえ その後の努力をしなかったのですから、後になってもったいないなぁと後悔したものです。
コツを掴みやすい人は「器用貧乏」とかいいますが、いきなりできてしまうからモチベーションが上がらないんですね。
それが、努力できない原因!
私はその後運動部を辞め、音楽の部活をやったのですが、楽器に関しては、100%努力のみ。 身体能力の差は運動部ほどないのですが、技術と周囲の音を感じ考える能力は、完全に経験と努力のみです。
楽器・・・ 難しいなぁ・・・
それが努力できない原因!(自虐)
マトメ
努力を重ねて得たものは努力しないものなんかより深く重みがあります。 あたりまえですが。
器用貧乏で最初から周りの人より少しだけ出来てしまうと努力を怠り浅く軽くなってしまいます。
本物を磨いた輝きと、メッキを施しただけの輝きではある程度のひとはごまかせても ホンモノのひとにはごまかせません。
しかし男というものはしょうもないもので、メッキの輝きたるぶりっこ女子にも 「ホンモノの輝きや!」とか「メッキでもきみはうつくしい!」なあんて思ってしまうんですよね。
これぞ男の懐の深さだ! と美化して正当化して終わります。
おしまいマイン!