「義務」
法律上または道徳上、人や団体がしなくてはならない、また、してはならないこと。
(google先生調べ)
だって。
なんかねぇ、キライなんっスよ。
義務って「響き」。
「法律上しなくてはならない」って
政治家のくっさいZizy達が勝手に決めたことと、「しなくてはならない」っていう旧日本軍的「命令」がキライに拍車をかけてますよね。
みなさん、いい汗かいてますか?
日照ノ秋人です。
大人になるとさぁ・・・
嫌じゃん、命令されるの。
多くの人が履き違えている義務教育
カンタンに言えば、
「子供は学校にいかなければならない」
のではなく、
「親が子供に教育を与えなければならない」
が正しいとらえ方です。
極端に言えば、学校なんかいかなくたっていいし 行かせなくてもいいんです。
だから学校にいかなくたって法律違反ではないし、 子供が責任を問われることはありません。
子供はそんなこと気にしなくていいんです。 課せられるのは親なのですから。
重要なのは「親が子供に教育しているか、何らかの形で与えているか」なのです。
学校に馴染めなければ違う学校もある
しょうもないいじめっ子のガキはどこにでもいるんですよ。
それを咎めないガキもいっぱいいる。
割を食うのは少数の「いじめられっ子」で、学校は「いじめられるほうも悪い」なんてふざけたこと言うんです。
どう考えても「いじめっ子」が悪いに決まってます。
そんなこと言う学校の、子供に教育を与えるはずの教師がいるのなら、その学校の教育方針から学び得るものは無いと思います。
教師が人間関係というものから逃げているのですから。
しかし、学校はひとつではありません。
私立の学校もあるし、親が自ら教育を与えたっていい。
いろいろなブログを拝見させていただきましたが、いじめられっ子は「逃げる」のでなく誰よりも戦っている「証」なのだと言っておられる方もおりました。
本当にその通りで、その証を持った子供は学び舎を変えたって戦っていけるのではと考えてしまいます。
もちろん、全員がそうでないかもしれないし、変わった環境で「いじめっ子」に変貌してしまう可能性もあるのですが。
なので私の子供には、学校に居づらくなったら環境を変えるから遠慮なく言いなさいと言ってます。
引っ越しだろうがなんだってします、
「逃げる」のでなく、「証」を持って。
子供にとっては「義務」というものがプレッシャーになっている
上で書いたように、「義務」は親が背負うものですが、子供たちは「自分が背負うもの」と考えがちです。
「学校に行かなきゃいけない」とプレッシャーを感じ、やりたくないことをやったりやらされたりで、まわりのクラスメイト達と自分は違うのでは、自分がおかしいのかと疑心暗鬼に陥り、自分が「間違っている」という結論を自分で導き出します。
周りと違って自分が「間違ってる」と思ってしまったら、自分を責めます。
責めなくていいんです、間違ってませんよ、そうたしなめても自分で導き出した結論ですから、子供とはいえ簡単には撤回しません。
「義務」と「間違っているという結論」に苛まれたら学校に行くことを避けるようになります。
「学校に行かなきゃいけない」というプレッシャーから不登校になるのではと考えます。
親が教育に参加しないでどうする
子供が不登校になる要因はたくさんあると思います。
「不登校」にならないようにと考えていても、当事者でない親達はどうしても子供の気持ちを汲み取ってやれません。
ならば、親が教育しましょう。
親が子供に教えることは、学校で学ぶことよりはるかに多いです。
それに、生きていくうえでどうしたら良いかという指針となる為、親がおこなう教育はとても大事です。
親が教育を与えていれば、「義務教育」になんの問題もありません。
そんなこと簡単に言うなよと自分でも思いますが、自分の子供ですからね、自分より人生はまだ長いんです。 .
親が子供のために動かないでどうするよ。
それくらい、人の親になるというのは覚悟がいることだと思います。
マトメ
「義務教育」っていうからダメなんでしょうね。 「子供に教育を与える義務」くらい言ってほしいです。
怖いもので、「義務教育」という言葉で多くの親子がはき違えてしまう。
言葉づかいひとつで変な形で伝わってしまう。
「義務教育」と定義した時点でこうなる運命だったんですね。
最初の名づけ方で良いも悪いも決まる。
ブログタイトルなんかはそうですよね。
伝え方が9割なんてありますが、まったくその通りだなぁ。
おしまいマイン!