ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

こどもに夢を与えられないおとなたち

スポーツは時に、こどもに夢を与えることもしている。

サッカーだって選手入場の際、選手と手をつなぎ入場するだけでも、 こどもは試合をするグラウンドに入場出来るし、選手と同じ視線から客席を、 試合開始前のスタッフの一連の働きを見ることができる。

たったそれだけの経験でも、こどもというのは影響を受ける。 つまり大人が思う以上に「単純」なのだ。

チアの構成員を募集していたり、こども席を用意したりと 「未来のサポーター育成」という真意はとりあえず伏せておいて、 こどもたちには普段絶対にできない体験を提供していることは、 子育て中の親から見ればとてもありがたく立派なことだと思う。


野球の始球式。
ある芸能人の「引き伸ばし事件」、ありましたね。

某スポンサーのイメージキャラクターを務める芸能人が、

マウンドでいろいろやった挙句なかなか投げず、4分程試合開始が遅れた。 観客は「選手そっちのけでスタンドプレイ」に激怒し、その間まちぼうけの投手はそれが影響してなのか、 初回からズタボロに打たれて各方面が激怒する事態に発展。

いろいろ波紋がありますが、真剣に応援する側からみれば、 「試合に臨む選手たちを待たせるな」と思うのでしょうが、 その事件に対する巷の記事では、 「始球式を見直す時期に来ているのではないか」 という見出しが躍っていた。

「始球式自体を見直す」
というのはなぜだろう。

なぜ現代人はこうも極端に
考えてしまうのだろう。

始球式で投ずるひとが
「なんとか」すれば良いだけなのに。

式典自体の価値なんか無いじゃないか。
価値が無いなら無意味じゃないか。
無意味ならやらなくて良いんじゃないか。

極端かつ、極端。
「ヤメテシマエ」とは世間の流行歌なのだろうか。
そこに夢はあるのかと言われたら「無い」と断言するのだろうな、現代人は。

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野球であれ、サッカーであれ、始球式をやりたいかと聞かれたら、 私はやりたいと思うがどうだろう。 意外と世間のおとなたちでも「やりたい」と思うのではないか。

だって、競技するグラウンドに立てるだけでも胸アツじゃないか。 選手が近くにいるのも、グラウンド上の温度や風を感じるのも、 「超」がつくほど非日常でめったに体験できるものじゃない。

おとなのおじさんですらこんなにトキメクのに、 純粋なこどもだったら鼻血が出るほど興奮するのではないか。
※個人差あります。

そんな機会を、そんな経験を、
なぜこどもに譲れないのだろうか。

芸能人でなければならないのか。
公人でなければならないのか。
スポンサーでなければならないのか。
それらはこどもを押しのけて
始球式をしたいのだろうか。

おとなのおじさんでもトキメク体験をこどもである時に味わってほしいと ここのスポーツバカ約一名は、痛烈に思うのである。

そんな体験をして一家だんらんが華やげば、 こどもも親もうれしいし、ちょっとだけ「幸せ」だよね。

始球式が遅れたから選手の肩が冷えて悪影響が出た、だからやめよう。

そんな程度で悪影響だと感じるくらいならプロとして実力はどうなのか。
ただ単に実力不足なのではないか。

神経質になるのはわかるが、 言いたい事言う無邪気と邪気が混じった観客がいてこそ成り立つのが競技者ではないか。
悪影響だと言ってこどもの夢を阻害してしまう「程度」なら、 成熟したおとなの人間として「その程度」なのだろう。

こどもが夢を体験することが年々「システマチック」になっているような気がする。

かの「キッザニア」なんかはこどもにとって絶対に良い機会を作ってはいるが、 どうしてもおとなの事情と思惑が「夢=職業」の域を超えていない。

職業体験でもない「非日常」の始球式みたいな夢の時間。

成熟したおとなが夢にいつまでもしがみついていないで、その機会をこどもに譲る。

古くて既存のシステムだって、こどもにとっては貴重な夢体験。

イチ親として、こどもたちには「こどもの時」にそんな体験をしてほしいと なりふりかまわず思うのだ。

written by 日照ノ秋人 夢を体験せずに
育ったおとなはこんな文章を書きます。


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