ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

お前はもう、専門家。

私の仕事は日本において競技人口の少ない仕事である。 明かしてしまうと、簡単に身バレするほどに。

競技人口が少ないため、仕事の依頼は全国から集まる。 といっても私の体はひとつだし、私のチームも大規模ではないため、 1年で全国津々浦々というわけではないが、 多くの地方で仕事に関わる様々なものを20数年続けてきた。

20年もやっていると、だいたいその案件の着地点が見えてくるものだ。 客先の担当者でも見えない着地点とは、頭脳明晰でも、 独創的なセンスを有してでも見えないものだと思う。

では、何なら見えるのか。

それは世間では評価に値せず、無駄なものと言われる 「経験」に他ならない。

今までの事例は20年分。
今までの対策も20年分。

だいたい20年やっていると、すべてのパターンを経験するものだと思う。 世の仕事とは「前例よりも良くする」のが前提のため、 過去は極端に言ってしまえば「悪しき過去」でしかない。

自分で培った経験値は全て「半面教師」とするためのもので、 過去と同じものを社会へ提供してはいけないのだ。

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経験はもちろん必要。

ただし、経験の「使い方次第」では評価に値しない無駄なものとして嘲笑われ、 次の世代には引き継がれない。

引き継がれないからいつまでも「おじさん」が活躍してしまう世の中になる。 そういったものは「AI」が引き継ぐから良いんだという者もいるが、 「AI」では何ともならない職業が世の中ほとんどではないか。

私より上の世代の人間がごっそりと定年退職でいなくなり、 労働者不足が叫ばれれば、その穴をそっと埋めるのが「AI」なのかもしれないが、 あくまでその程度でしかないとも思う。

やはり人間が手を下してナンボなのだ、と。

私は20年以上同じ仕事を続け、今では着地点から逆算して仕事をこなしているが、 このやりかたには一切無駄がない。
あるとすればお客さん側の
「顔も見たことがない偉いさん」
の鶴のひと声で引っ掻き回されるくらいだ。

こうなると、もう「専門家」の領域ではないか。 今では希な絶滅危惧種的職業の小さい会社に属しているが、 「専門家」として胸を張るべきではないかとそろそろ思えてきた。


仕事のほかに20年以上、何かを続けてきたことはあるだろうか。 よく考えてみると意外に無い。

造詣の深いもの、知識を持ったものはあるが 「20年継続した何か」はなかなか無い。
仕事では「専門家」を名乗れるが、仕事から離れれば「ただのオッサン」なのである。

我が子は今年で10歳になる。
というと、子育ては10年やっていることになる。 父親は「子育て」に関しては母親にとうてい及ばない貢献度のため、 「父親10年やってます」とは、あまり大きな声で胸を張って言えるものじゃないが、 それでもまだ10年なのだ。

子育てを20年やったら子供は20歳。
ちょうど親離れして独り立ちする頃だ。
つまり親とは「専門家になる頃に卒業」してしまうのである。

子供が巣立ったら、 父親とはなんなのだろう。

昼は「仕事の専門家」だが、夜は「ただの飲んだくれオヤジ」になるのではないか。 だから昔から父親なんて、家で「ぐでたま」のように酔っぱらって、 寝転んで、奥さんに怒られて謝って、燃えカスのようになってしまうのだろう。 そして熟年離婚して、燃えカスはなんの取り柄もなく木枯らしに吹かれ、 地面を転がるのだろう。

そんなものになりたくない私は現在の「パパ活」の先の「ジジ活」にむけて、 少しでも可能性を見出したく、定時に運よく帰れたならば「専門家」の肩書を放り投げ、 食器洗いに精を出すのだ。

パートで私より遅く帰宅した奥方がそんな光景を見て、 「なにしてんの」と言うので私はこう返した。

「ジジ活・・・」

スーパーの袋の中をガサゴソしながら
「もうあるよ」
という奥方の手から、チキンカツを手渡された。

written by 日照ノ秋人 
チキンカツは素直にうれしかったが・・・ねぇ。


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