ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

とあるブロガーの話

私のブログは子育てとかダイエットとか言っておきながら、 目指しているところが若干変わってきている。

それは「文字」だけで「ちょっとおもしろい」とひとに思わせることができるか、 という意識で最近は書いている。

「ちょっとおもしろい」だけでなく「ちょっと真面目」なことも 一応読んでくれるひとのことを考えて書いている。

だからおもしろいブログに出会うと、 おもしろいと素直に思う。

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おもしろいブログに出会ってしまった。

今ではそのブログを時々覗いては1年前、いやそれ以上前の記事も読んで 「ほえ~」なんてマヌケな声を出して読んでいる。

しかし最近「炎上的」な事柄に直面し、 更新頻度を見直すゾという知らせがあった。

事が事だけに言及やidコールは辞めておこうと思うが、 「ちょっとおもしろいもの」を目指す私にはそのブログが 自分の1年先を行っていることに衝撃を受けた。

打ち消し線ですべてを打ち消した記事とか、 やろうと思ってたらすでにそのブログでやられてしまっていた。

悔しいが負けた。

ブログに勝ち負けはないし、わたしよりブログ歴が長い先輩であるが、 発想、観点、くだらなさが私にちょうどいい温度で、 しかも文字だけで表現されているのだから正直くやしい。 「スターリンス」でうっかり笑ってしまったのはナイショである。

自分の中では「良きモデル」としたかったのに、 ここへきて「ブログをリセットする」という宣言にはちょっとだけさみしいとも思ったが、 炎上が理由とあっては致し方無しかなぁとも思う。


炎上するってどんな気持ちなのだろうか。

やはり「有名税」みたいなものと一緒で、多くの人の目につくのだから、 アンチが沸いたりするのも自然な流れかもしれない。

今までは挑戦者だったのに、いつの間にか「挑戦される側」になってしまった自分には相当なプレッシャーが圧し掛かるのだろう。

生活に直面しているならば「生きる」ことを正義に闘うことはできるかもしれない。 ボクシングのチャンピオンもそうだが「挑戦される側」は常に恐怖と隣り合わせ。 負けたらすべてを失うというプレッシャーにも打ち勝つほどの正義を胸にする必要がある。 趣味でやっているものだったら、アンチと闘う「正義」も「意味」もひょっとしたら無いのかもしれない。

だったら更新をしばらく控えるなどの対処は正解なのだろう。

私はまだ「挑戦する側」だからその気持ちを汲んであげられないが、 もし自分が炎上なんてしてしまったら穴に入りたいと思う、穴があったら。

今はプレッシャーなんてものとは無縁のブログライフをやっているが、 ただ吐き出したい事を吐き出しているだけの「セルフィッシュセラピー」なのだから、 そもそも読んでいただけるひとが少ないし、炎上のリスクは無いだろう。 ひょっとしたら「湯シャン」界隈から怒られることはあるかもしれないが、 たぶん屁の河童(←コレ、どういう意味?)で 「クセークセー」という呪文を唱えてアホ面でコーヒーなんか飲んじゃっていると思う。

しばらく休んでまた楽しいブログを読ませていただきたいとここのおじさん約一匹はコッソリ思ってますよ。


文字だけで人を楽しませるのは難しいと思う。

特に「笑い」というのはひとの感情をくすぐるわけだから、 空気感を読み取ってタイミングよく抑揚をつけた「話術」ならば簡単かもしれないが、 ソレを文章にしただけではおもしろくない。

感情をゆさぶる抑揚が文字からは見えにくいのだからだと思う。

話術に縛られていると文章で表現したとき面白くないのではないか。 もちろん逆もしかり。 おもしろさの質が違うのだろう。

だから文字でおもしろさを表現出来るひとは、 私にとってかけがえのない存在である。

おもしろけりゃいいのか、
おもしろけりゃいいのである。

私のブログが大人気であったら、
おもしろけりゃいいなんていい加減だ!バカにしている!
なあんて炎上するのだろうか。

想像しただけでうんざりしそうだ。
だがその心配が今の私には無いことが若干さみしくもある。

written by 日照ノ秋人 面倒くさいことは大嫌い。