回遊魚みたいだな。
努力努力を口にする人達は時間を無駄に流すことを嫌う。 現代人は皆、そうなのかもしれない。
何かに触れていないと落ち着かない。
何かをやっていないと落ち着かない。
何もやらないことは無だ。
無はなにも生まないからダメだ。
だから走り続けるんだ。
ほら、回遊魚。
回遊魚なんだからグルグル休まず走り回り続けていればいいのに、 なぜ無を甘受しているひとに対して、 「それは無だよ、無駄なんだよ。」 と、お節介を言うのだろうか。
走り続けた先に何があるかもわからず言うお節介は信憑性も何も無い。 もちろん無を甘受していたってその先になにがあるかはわからないのだが、 どちらも「先に何があるかわからない」のなら、 どちらでも良いはずである。
どちらか好きな方を選んだら良いんじゃないかな。
そんなふうに考えると人間ってヤツは無を恐れるから、 走り回る方を選ぶのだろう。
「時間を無駄にしたくない」ってひとは、 ボーっとすることで時間をゆっくり流すことを恐れているのか。 ゆっくり時間を流す勇気がないのか。
どちらにせよ、小さく見えないか?
そもそも、時間に「無駄」なんてあるだろうか。
生を受けてから死ぬまでの時間を数値化してしまったのは我々人間だ。
人間が自ら「有限」にして価値を割当ててしまうから、 無駄だの有効だのに振り回されるのだ。
時間を有効に使えば・・・という人間らしい価値観を振り回せば、 時間を無駄にすることを悪だと思い込んでしまう。 でも、時間の使い方なんて人それぞれなんだから、 人によっては「無駄な時間」ではないのだ。
自分が無駄では無いと思っているけれど、 「その時間は無駄だ」と決めつけるのは大概の場合他人だ。
自分の人生は自分が進む。
まわりに「無駄」だと決めつけられる筋合いなどないのだ。
いくらちっぽけな人間がガムシャラに走り回ったって、
遠回りになっていたら時間はかかる。
ガムシャラ回遊魚人間にありがちなことは焦ってすぐ行動に移ってしまい、 落ち着いて見渡せば最短距離の道筋が見つかるはずなのに、 遠回りしてしまうところである。
車の運転はスピードを上げるほど視野角が狭くなる。 鷹だって獲物を追うスピードで飛ぶ時は視野角が狭くなるらしい。 人間も生き急ぐことで視野角がせまくなっているのではないか。 一瞬立ち止まって周りを見渡せば、最短への道が見つかるかもしれない。
まぁ立ち止まってしまったら、回遊魚は死んでしまうが。
情報を頭に入れないことは良いことだと思う。
焦って詰め込むよりはむしろ「入ってくる」とも思うのだが、 お節介さんから「無駄無駄」言われるのもシャクである。
時間を垂れ流し、無を甘受しているひとは 頭に情報を入れない努力をしている と言ってしまえば良いだけかもしれない。
それほどに、不要な情報があふれすぎているのだから、 貧乏クサくその情報を拾わなくても良いのだ。
ひょっとしたら時間を垂れ流す「無」は、 人間にとって「崇高な時間」なのかもしれない。 あるいは「贅沢」だろうか。
お金のかからない贅沢なら、
たまにはよかろう。
おいしい紅茶やコーヒー、お酒を飲みながら 無を甘受することが楽しいと思うひともいるだろうし、 おいしいクッキーにホッとしたりできるじゃないか。
それに意外と時間の流れはゆるやかで、 それほど時間を無駄遣いしていない。
そんなことに気づくと、最近の人に忘れがちな 「安らぎ」というものを意識し始める。 それを知っているだけでも、 小さいひとよりは大きく見えるんじゃないかな。
written by 日照ノ秋人 余裕を欲する事は良いことじゃないか。
こちらも読んで時間の無駄遣いしましょう。