ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

歌がうまいのと良いボーカルは違う

2018年末の紅白を今更思い出したわけでもないけれど、 今なお心に引っかかっていることがある。

唄というのはひとの心を豊かにするのか、 それとも・・・。

今回はモヤモヤではなく「ハッ」とした感じ。 心に残っていることを真面目に書きます。

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紅白を見ていたら

「島津亜矢」という歌手をご存知でしょうか。

私は「亜矢」というミュージシャンが大好きで、 今は別の名前になっておるのですが、 一時「消息不明」になっていました。

教えてくれよ~グーグル先生~。
と検索で「亜矢」と入力しても、見つからない。 そのかわりに出てくるのが「島津亜矢」というひと。

見るからに「演歌」の方で、
おおっ・・・演歌はまだ理解できないな・・・
と、ひるむ男一匹はその「島津亜矢さん」を右上のペケポンでそっと閉じておりました。

そして紅白。
だらだらと見ていたらその「島津亜矢さん」が出ていらっしゃる。

これは今まで知らず知らずペケポンで避けてしまっていた 己の凝り固まった頑固さに対峙する良い機会だと思い、 正座して聴くことにしたのだ。

歌う唄は「時代」、
中島みゆきの「時代」。

泣いた

「時代」は元々好きな歌ではあった。
ただ島津亜矢が歌う「時代」は全くの別物だった。

自分の中で検索でいつも私を邪魔する演歌歌手だと頑固に思っていたことが一気に崩れた。

何が一番驚いたのかと言えば演歌的な歌い方を全くせず、 「歌手」として唄を表現していたことだ。

歌の技術とかではない理屈では全く測れない圧倒的な力に、 不覚にもテレビの前で泣いてしまった、しかも正座して。

そのあと、今まで紅白に出場しなかったユーミンが出ようが桑田が出ようが、 米津某がレモンだろうが、全くなにも感じなかった。

それらを「雑魚」扱いにした島津亜矢というとんでもない歌手に、 しかも「テレビの前」で打ちひしがれた私がいたのだ。

私は思った、生歌を目の前で聞いていたら失禁したのではないか、と。

歌がうまいのと良いボーカルは違う

島津亜矢の技術とか、この門外漢が分析したくないのだが、 「演歌」とか抜きにして、やっぱりプロの歌手だけあって凄まじいことに違いはない。 シロートでもわかるんだからやっぱり凄いのだ。

では、最近テレビでもやっている「歌がうまい」うんぬんに出てくるひとたちとは何が違うのか。

歌がうまいだけならその辺にいっぱいいる。 スナックで高らかに歌うオヤジもそれなりに技術があって、 しかも酔いどれ状態で喉もベストコンディションとは言えない状態でうまく歌う。

「うまいねぇ」という評価は浅い。 それは「技術」というモノサシで測っているからで、 心の奥底から取り乱した感情で「うまいねぇ」と評価しているわけではないからだ。

冷静に「技術」がどうかなんて言っている段階で、 「ただ歌がうまい」であり「良いボーカル」ではないことに気づく。

歌を聞いて「泣いてしまう」のは、そのひとにとって感情をゆさぶられた何かがあったからなのだろう。 それが「うまいひと」か「ヘタなひと」は全く関係ない。 だから私がどれほど泣こうが、泣かない人がいたって自然なことである。

私がそんな事を語ってしまうのは、 感情をゆさぶられた何かを体験したからだ。
MP3ではなくCDを。
CDではなくレコードを。
レコードでなく生演奏、生歌を。

音楽配信という形では、どうしても冷たくヒラペッタイものとしか 聴き取れない私や現代人は、歌の評価が「技術」でしかできず、 「技術のモノサシ」しか持ち合わせないひとになってしまったような気がして、 なんだか残念な気もするのだ。

本当に良いボーカルというものは、ひとの心を開かせ、 感情の洪水を垂れ流させてしまうもの。 きっと気づいていることなのだけれど、 忘れてしまっていることに再度気づかされたような気がした。

やっぱり音楽は生モノだなぁとしみじみしてしまった私、もう若くないのかなぁ。

唄は良いものだ

ユーミソも桑田も特徴的な声ではあるが、なんだか違う。 ましてや米津某は「唄」が好まれてるだけで「歌い方」は、 特に評価されてるとは思えない。

ひょっとしたら、テレビに出ていたのは影武者で口パクかもしれない、 似てる違う人かもしれない。

それに米津某も、「唄」が好まれてるだけで「歌い方」が、 評価されてるわけではないと自覚しているのかもしれない。 あれだけの数のプロ歌手が同じステージで歌う事を体感するのは、 良い刺激になる反面、自信を失う可能性もあるからだ。 それで、徳島の美術館からの出演としたのではなかろうか。
(まぁ地元に帰って引きずり出された感はあるけれど)

どちらも先入観のない「初見」のはずなのに、米津某からは何も感じないばかりか、 このライムだかレモンだかも島津亜矢が歌えばいいのにと、 私に思わせたのだからそれが私の評価というものだろう。

こんなに書くと米津某が嫌いなのかと思えてくるが、 私は両者とも初めて見たし、メロンだかレモンだかも全く知らなかったので、 感想は「なにも感じなかった」だけである。
ファンの方、すまん。

しかしそのレモンだかも聞いた境遇、心境により胸に染み、 心がパカッとひらいたひともいると思う。 唄はひとそれぞれ感じるものが違う。

記憶のカギであったり、自分の士気を高めるものだったり、 恐怖を振り払うものであったり、本当に違う。 だから唄を否定するつもりはない。 むしろ大いにあって良いものだと思う。

ひとは節目には必ず唄を歌ってきたし、 これからも歌い、そして聴き続けるのだ。


 
今回初めて島津亜矢というひとの歌声を聞いて、 すっかり心を揺さぶられてしまった私は、 こんなにすさまじい衝撃を受けた体験をもっと喰らいたいと思った。

20代の頃はライブによく足を運んだが、 これほどの衝撃を受けたことはない。 しかもテレビを観て、である。

上にも書いたけれど、生歌を聞いたら失禁してしまうのではと思う。 いつか、生で聞く機会があったら、成人用のおむつを履くことだろう。

おむつだけに、もれなくね。

written by 日照ノ秋人 陰陽座の黒猫さん以来の衝撃


貼っときます


島津亜矢 時代 2013

 
亜矢も貼っときます


AYA - Sentaku no Asa (Japanese Version) PV