ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

私は他人に期待しています

自粛自粛で学校さえも行けない我が子に、 どうせなら独自の勉強法でもと考えた親一匹。

「不要不急」の包囲網を申し訳ないが突破して、 我が子と本屋で本をあさっていました。

そして「職業図鑑」みたいな本を購入し、 家に置いておくことにしたのです。

様々な職種、職業。
それに就くまでに必要な学歴や教養。 人生の逆引き辞典のように書かれたものを読んでいたときに痛烈に感じたのですよ。

夢は親が与えるものではない

ということに。

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親が子に与えるもの

親は子に何を与えるかといったら、

将来親無しで生きていけるように。
挫けても立ち上がれることを忘れないように。
礼儀くらいは理解できるように。

などの「現実」を与えていると思うのです。
いや、「現実しか」与えていないのです。

役者?バカもんっ!
声優?おいおいっ!
ハイパーメディアクリエイター

え、何するひと?

自分の実力だけではなんともならないキラキラ職業に惹かれる子供になんとか「現実」を知ってもらいたい親。

夢じゃ生きていけないよ。

知っているからこそ
言いたくなるセリフ。

本当はね、
夢に向かって頑張ることが一番成長できることくらいわかっているんですよ。

でも子供の夢をそっとしておけないのが親。

「現実を押し付ける親を正当化してるだけだ!」と思われるかもしれませんがそれが親の愛だと思うのです。

知っていることは教える。
でもわからないこともある。
人生を生き抜く術を、
我々親だって知らないのですから。

だから他人に期待しています

親が子に「夢」を与えられないなら、
夢を与える他人に期待するしかありません。

職業図鑑ではなく、
そのひとの生き様を見て何をすべきか。
人生を生き抜けるかどうか。

他人を見て判別してほしい。

成功例はいくつもキラキラしたところにありますが、 その陰で夢をあきらめた大多数のひとの現実は、 あまり見る機会がありません。

親ではない「だれか」だからこそ、 夢と現実をリンクさせられるのだと思うのです。

夢を与えるおとながいない

では私が夢をどこかの子供に与えられているかといえば全く与えていないと思うのです。

夢の職業に就けていないから、
「夢を与えられません」
ではいけないような気がします。

私は子供が幼稚園に通っていた頃、 モーレツ(モーレツってアンタ)にピエロを演じました。 それも、幼稚園内で。

「おもしろい大人」って、子供には特別な存在に映るのです。

おおげさに転ぶ。
おおげさに笑う。

「人間っておもしろい」って子供たちに思わせたら私の勝ち。

でも夢は与えられなかった。
ただの「おもろいオッチャン」で終わってしまった。 その時プラスアルファがあれば、夢は与えられたかもしれないと今では思っています。 変なことを植え付ける気はありませんがね。

でも子供たちが注目するくらい「おもろい他人」っていないのですよ。 今ではスマホを猫背で見る大人ばかりで、 子供にとってなんの「刺激」も「魅力」もない。 子供に与えられる夢なんて到底無いのです。

それどころか他人の「魅力」を理解できないひとって多くないですか? だから「惹かれる」とか「惹かれ合う」が無くなって、 ますます自分の世界観だけで世界を測ろうとしてしまう。

今は他人にすら、期待できないのかな・・・

他人が出来ることは絶対にある

あるのですよ、絶対。

やらない、やってないだけ。
或いは「使命感」がないだけ。

ひょんなことから知り合えた方がご自身のラジオで 目指している仕事は社会に貢献できる仕事だと思う と語っていましたが、「社会貢献」を考えるだけでも使命感を持った立派なおとなだと思いました。

ネット社会でひとを貶めるのではなく、 守ることが、救うことができないだろうか。
これも立派な使命感。

なあんだ、いっぱいいるじゃん、
立派な大人が。

やっぱり他人に期待しますよ。

社会に貢献しようとする姿勢。
ひとを守ろうとする姿勢。
これは絶対子供に魅せつけて良いこと。

「おもしろい大人」が少しでもいる限り、子供達には夢を与えられる。

だから私はまだあきらめていませんよ。

でも「おもろいオッチャン」は幼稚園児までしか通用しませんから、 今後は「かっこいいオッチャン」をめざして 「スナック菓子とのお別れ会」を今夜開催するのです。

written by 日照ノ秋人 皮切りに、ええ皮切りに。


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