街に流れている音楽を聴いて、
私の奥方は言う。
「こういう音楽、キライ。」
その曲は、いわゆる今風(いまふう)とかって、 うっかり言ってしまうようなものだった。 しかし我が子は「知ってる」と言い、 誰の何て曲かを聞くと「それは知らない」と言う。 口をモゴモゴしながら顔を見合わせる我々親の感覚と、 現代の音楽事情のギャップにかなりの溝を感じてしまったワケで、 スルーすれば良いものをいつもの懐の深さを見せびらかそうという記事にしてしまう私であった。
すとぷり
学校で流行っているのか、そればっかりな我が子。 メンバーの中には性同一障害の方もいたりして、 「現代風」だと私が昭和風(しょうわかぜ)を吹かせたくなってしまうグループである。
最近そのCDを買って家で聴きまくっているのだが、 全ての楽曲がな~んか同じテイストに聴こえてならないのだ。 それは曲調とか音色だけではなくなんだろうと考えてみたら、 「コレ、誰が歌っても変わらない曲だよね」という事だった。
「スキスキ星人」という曲を北島三郎が歌おうが氷川きよしが歌おうが「スキスキ星人」になってしまいそうである。 どういう感覚かというと、「北島三郎のスキスキ星人」というより、 「スキスキ星人を歌う北島三郎」という感じ。 歌う人よりも楽曲が先にきてしまう感じ、といったらいいでしょうか。 ここまで「北島三郎」というワードを連発してみたが、 コレを見たソコのあなた。「お茶漬け」とか「ちらし寿司」が食べたくなったら こっち側です、ようこそ。(全然関係ない)
誰が歌っても変わらない
昭和の頃にも存在した。
それは「アイドル」の楽曲である。
アイドルに提供される楽曲は常にその時代の一歩先を見据えて作られており、 サウンド的にも最先端の楽器と最先端の使用方法で、 我々に今ドキ感と若干の胸やけを与えている。
誰が歌っても変わらないということは誰が歌っても成立するのかと思いきや、実はそうでなかったりする。 光GENJIの楽曲をチャゲアスが歌っているのを見た時には相当な胸やけ感があったことを考えると、 歌う人や演奏する人のキャラクターが色濃く投影された音楽は、 「誰が歌っても同じ」という言葉をどうも粉々にしてしまうようだ。
それが「オリジナリティ」という言葉に表され、 価値があるものだと言われてきた。 そう、今までは。
最近、「矢島美容室」とか誰かが誰かに扮した企画モノ系が出てこないのは、 歌う人のキャラクターを考えて音楽を作らなくなってしまったからだと思う。 「誰々のナントカという曲」では、ファン以外にはきっと売れないからだろう。 今では「ナントカという曲」だけが売れているような気がする。
オリジナリティの欠如。
そんな安い言葉でかたづけてはいけないが。
親子のギャップ
親が聴く音楽に影響される子供はいるが、 子供の音楽に影響される親はそれより少ない気がする。
もちろん全く影響されないワケではないし、 maman (id:mamannoshosai)さんのようにワンオクを親子で聴くようになるのも親子のカタチだと思う。 ワンオクが親世代の人も理解が出来るのは、 「バンドサウンド」と「ちょっと新しくない」からだとふと思ってしまった。
テレビでいろんな歌手がいろんな楽曲をカバーしたりするが、 ワンオクやらバンプやらがカバーされないのは、 「バンド」であることと、それ以上にオリジナリティが濃すぎて聴いている人に違和感を与えるか、 全く別物になってしまうからだと思う。
違和感を感じてしまうのは「オリジナリティ」を求めているからかもしれないが、 逆に考えれば「オリジナリティの無いもの」を毛嫌いしているようにも思える。 だから私は「すとぷり」の音楽を聴いても響かないのかもしれない。 それくらい汲み取る感性が鈍っているか、汲み取る努力をしていないかのどちらかだろう。
「スキスキ星人」の作者をみてみると、
「ナユタン星人」とあった。
それは、ボカロPであった。
もはやボカロPではない
冒頭の我が奥方に「キライ」と言わしめた楽曲もボカロPの楽曲である。 もちろんボカロが歌っておらず、人間が苦しそうに歌っている。 コンピューターサウンドでピアノが必ず登場し、 ブレス(息継ぎ)を考えていないので歌手が苦しそうである。 すとぷりも、フレーズごとに歌うメンバーが火縄銃の鉄砲隊のように入れ替わりでブレスをしている。 巷で流れている音楽はほぼソレで説明がつく。 それほどに「二番煎じ」が否めないというのが現代音楽であり、 それに影響を受けているのが我が子達の世代なのである。
YOASOBIが紅白に登場し、我が子に「歌ってみろ」と振ってみたが「息が出来ない」と途中でやめてしまった。 実際YOASOBIも声が緊張で震えていたし、歌うのに精いっぱいで「表現」のレベルまでは到達できていなかった…
と。
語ってしまうのは私が古いからなのだろう。 古きを讃え新しきを認めないのはジジイの証である。 これから音楽は親が理解できない方向に向かうと思う。 従来の「作曲家」や「作詞家」が鳴りを潜め、 押しのけるように「ボカロP」が登場し、 歌手が苦しそうで素人が歌えなさそうな唄が流行る。 「カラオケ」でなく「歌ってみた」に狙いを定めたものが「唄」というものになるのだろう。
我が子もそれに影響を受け、コンピューターミュージックに触れる機会が訪れるかもしれないと考え、 我が家にその環境を導入した。 子供が子供でいるうちは、親は子の先を歩かねばならない。 こうやって懐の深さをみせびらかしたついでに、 その環境から生み出したものがこれから「ですね。radio」の BGMで使っていただけるそうなので、宣伝して終わります。
written by 日照ノ秋人 こう書いておけばボツにしづらいだろうという算段