ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

ゆとり教育とはなんだったのか 政治家の野望を考える

今では「ゆとり」なんて言うとなんだか悪いこと、「マイナス因子」のような印象があります。

ZizyやBabarが決めたことなのに 「ゆとり世代」というレッテルをバチーンと張られ、社会に出てから「あいつゆとりだから」なんて言われてしまうのは なんだか可哀想です。

本当のところ、ゆとり教育とはなんだったのでしょうか。

みなさん、いい汗かいてますか?
日照ノ秋人です。

今回は私が考える「ゆとり教育」について 書いていきます。
あ、ワタシ、キョーサントーの関係者じゃナイネ。

ゆとり教育とは

そもそもゆとり教育とは。
おーい、グーグル先生!

詰め込み教育からの脱却
・暗記を評価基準とせず思考力を鍛える
・知識を学ぶだけでなく「生きる力」を学ぶ

等々。

教育というと仰々しいが、文字にするととりあえず見栄えは良い。

しかし、実際我々の目に映った実態は、

学校教育において授業量を減らし、
土日も休みにしちゃってお勉強なんかやめてしまえ。
遊び?おおいに遊んだらよろしい。

と解釈できるような生活の制度を整備 されてしまった感があった。
子供たちには自由な時間が増え、 一方の親は面倒をみる手間が増え、
家庭内の作業ウエイトが大人に乗っかるようになってしまったのである。

私が考える「ゆとり教育」を考えたひとの狙い

単刀直入に言ってしまえば
子供たちに自由な時間を増やし、学校教育だけでなく家庭、家族、その他諸々から知識のみならず知恵も学ぼう。

学校教育ではどうしても「知識」を教えることしかできず、「知恵」を授けるのは難しいし、先生方の負担も減らすことができるじゃないか。

学校が休みの日が増えれば、家族との時間も増え、「知恵」を授ける時間も増えるわけだから、みんなが「WIN-WINウィ~ン」じゃないの~?

というのが狙いではなかろうか。

ここで親としては知っておかなければ いけないことがある。
それは「義務教育」についてだ。

義務教育については他でもっと掘り下げたいのでカンタンに言ってしまうが、
義務教育が課せられる対象は「子供」ではなく、その「保護者」である。

子供が教育を受けなければならないのではなく、親が子供に教育を与えなければならないことであり、その教育の一環として国や市町村は「学校」という施設を用意し、それも利用することも視野に入れてくださいねということである。

子供が小学生になる年齢となったときに市町村から「きみはこの学校」という通知は強制でなく、「利用するならこの学校」であり、別に私立の学校に行こうが、学校に行かなくても構わないのである。
※学校に行かないのは教育をあたえていないということにはなるが

私なりにまとめれば
ゆとり教育の狙いとは、学校教育を減らして親自ら教育しろ。
そうすれば教員の負担も減るし、生活の「知恵」を学べる。

ということでしょうか。

しかし実際は・・・。

世間一般の親たちは「学校教育」が「義務教育そのもの」ととらえているひとが多く、子供が学校に行っている間に働いて、生活費、家のローンなどを稼いでおかないと生活がままならないじゃないか、それなのに、学校教育を減らすとは何事か!と受け取ってしまっていた。

序盤にも書いたが、結果的に子供の自由が増え、親の負担が増えたのだから、親たちの「押し付けられ感」だけが後味悪く残ってしまったのである。

子供の生活は国が変えた、さあ親たちも変えよう。
親たちは自分たちで変えよう、
国は知らん。

親目線で見れば、ゆとり教育とはそういうものだったのだ。

親たちの生活はすぐに変えられるものではない。

仕事を減らす=収入が減る
仕事を減らして収入を増やす=時間を費やして稼ぎ方を整備する
稼ぎ方を整備する=いや、そんな簡単にみんなが稼げる方法あるの?
というか仕事を減らす=仕事を辞めることになるじゃないか?

結局は時間がかかるのであるが、子供たちの自由はある日突然始まった。
親がついていけないのも無理はない。

理想は立派だが・・・

親に負荷をかけるキラーパスを出す形となった「ゆとり教育」だが、理想を追いかければあながち悪くないとも思える。

仮に生活費が腐るほど潤沢にあり、常に仕事にベッタリでなく、休みがいつでも取れ、夕方に帰宅でき、ヒマでヒマで仕方なく特に趣味もなく、接待や飲み会もなく 体形はスリムで、病気もなく健康な夫婦の一家がいたとしよう。

そんな家庭には子供に向き合う時間があり、子供と行動する時間と金があり、なにより子供と接する体調と心の余裕があるので、ようし、今度の土曜日はキャンプだ、自然とふれあって学ぼうとか、ボランティアに参加して、ボランティアの精神について学ぼうとか、 スポーツ観戦して、スタジアムの雰囲気を体験しようとか、いろんな体験を与えることができるのである。

しかし、日本国の国民は世界的に見ても心の余裕がないので「そうしよう」という発想が沸かない。

ゆとり教育を本当にやりたければ
大人の社会から変える必要があるのだ。

マトメ

とは言っても、日本国のお勉強システムに ガッツリ乗っかって「ぼくお勉強、ぼくお勉強」と言ってきた政治家の先生達も、こういう問題点があるとわかっていたはずである。(というよりわかっていなかった方が問題だが)

わかっててやっているとしたら、政治的に「ゆとり」を進める勢力をたたき落とすため、つまり政治的な理由で国民を利用したと考えられる。

それで「ゆとり世代」などとレッテルを貼られる方もたまったものではない。

政治がどーとか言うと、このブログ「なんだか違う」ので政治的なうんぬんは辞めておきますが。

理想の「ゆとり」が思惑通り実現していたらどうだったか。

子供たちも大人たちも休みが増え、外出も増え、経済的にも金回りがよくなって、パッと見よくなるのかもしれないのだが、 キャンプ場の管理人とか飲食店の店員とか休みに働く人も増え、結局のところサービス業の方々が割を食う社会になったかもしれない。

最終的には子供たちが割を食ってしまった。
政治家が罪なのか、社会が罪なのか。
いや、どちらも罪だろう。

おしまい、マイン。