ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

オオカミ少年とSNS

我が子の頭を悩ませていた「道徳」で、 オオカミ少年をテーマにした宿題があった。
少年はなぜ信用されなかったのか という問いかけである。

答え:ウソをついたから。

う~ん、50点っ!

オオカミ少年

羊飼いの少年が「オオカミがきたぞォ!」と叫ぶ。 本当はオオカミは来ていないのだが村人が集結する。 少年はソレを見てウヒャヒャする。

概要はこんな感じ。

結局最後は本当にオオカミがやってきて 助けを呼ぶも誰も信用しなかった、というお話なのですが、 この少年から学ぶことは人間同士の信用とか、常日頃の立ち居振る舞いとか そんなところでしょう。

ウソをついたから が50点なのは極端に言えば「ウソ」自体はそれほど問題ではなく、 「ウヒャヒャ」したことが問題だからなのです。

集結した村人達はその「ウヒャヒャ」を目撃していないかもしれませんが、 それにしたって少年の性格は悪い。

結局は少年の飼っている羊が襲われて、 我々の溜飲を下げて終わるのですが・・・。

あくまで村人目線

童話や学校のテキストでは、

振り回された村人達が正。
ウヒャヒャ少年が誤。

として我々を諭しています。

あくまで村人達からの目線なのですが実は少年、 何回かは本当にオオカミを目撃していたとしたらどうでしょうか。

ウソのなかにホントがある。
ホントのなかにウソがある。

検証が必要ですよね。

ひょっとしたら少年こそが正。
振り回されたと思っているが鈍い村人達が誤。

そうやって見てみると、おもわぬ所に似たような世界が転がっているのです。

そう、それはSNSという社会。

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検証してないのは見えないから

村人達が少年を不振に思ったのは、 実際にオオカミを目撃していないから ウソだと思ったわけです。

アイツまたウソつきやがってコノー。って。

しかし、少年だけが本当にオオカミを目撃していたのなら、 目撃出来ていない村人達は本当のことを理解しないで 少年をウソつき呼ばわりして助けなかった事になります。

それも、徒党を組んで。

だれひとりとして検証しなかったのでしょうね。 ひょっとしたらオオカミいたんじゃね? って思ったとしても、 多くの憤りの中へ投げかけられるものではないし、 群れの中で漂っている方が楽だものね。

村人の中の誰かひとりが疑問を投げかけたって きっと何も変わらないだろうから、 群れなんてものは検証しないで我が道を突っ走ってしまうのでしょう。

SNSなどのネット社会は全く何も見えないですよね。 顔も姿も経歴も肩書きも、名前すらも見えない。 「何が真実なのか」を本気で検証することもない。

偽って偽って、たまに気に入らない顔も名前も経歴もオープンにしている 「誰かさん」を徒党を組んで貶める。

卑怯者。

冷静に見れば一歩離れてそう呼べるのだけど、 群れちゃうとね、見えないんだコレが。

ポテサラも検証が必要

ツイッター界隈でヒートアップした
「ポテサラ事件」。

確か概要は、

スーパーで子連れの主婦が
惣菜コーナーでポテサラを
買おうとしていたところ、
見ず知らずのオヤジに
「母親ならポテサラくらい作れ」
と言われているのを見た。

というツイートが発端だったと思う。

私が不思議で怖いなと感じたのはなぜか。
ツイート主が「言われた主婦」ではなくその光景を見た「誰か」であり、 オヤジの発言の真の意図や背景が全くわからない事と、 そもそもそれ以前にオヤジがそんな発言をしたか否か、 疑問を持ったひとがほとんどいなかった事です。

実はその前に主婦の方がオヤジに口撃したかもしれないし、 そもそもそんなオヤジは存在せず、幸せそうな主婦を妬んで 「ポテサラくらい作れや」 と思った人が「架空のオヤジの発言」として ツイートしたかもしれない。

その検証がまったくされておらず、 皆が「オヤジありき」で議論が進んでいる。 まるで全国のオヤジを狩る「魔女狩り」 と言わんばかりの盛り上がり方。

今はそれが「意図的に」出来てしまう。 作為的である人に、明るい希望は感じないのです。

私ならね、その光景を見たとしてもツイートはしません。 幸せなことは共有したいけど、怒りは共有しない。 怒りは次なる怒りを生んでしまう。たまにはカッコつけさせてください。 自分の怒りは面白くないんだ、コレが。

ところで奥方。 ポテサラは簡単か?

ポテトフレーク(粉末)を使えば簡単だよ。

ゴロっとさせてくれ、イモをっ!

絶望ばかりにしたくない

そんなネット社会に絶望したってハタから見ればただの私個人の怒りだし、 ただのすかしっぺなのですよ。 どーせなら、絶望の裏に希望が転がっていて欲しい。

イヤならネット社会から離れればいいというのは正解だと思います。 疲弊して、嫌になっちゃう所にいたって何も得られないし、 なによりつまらないじゃない?

ネット社会に合わない人がどこに流れるかといったら、 全く逆の社会だと思います。 ネット社会の真逆、つまり人間社会。

人間ってどこかでね、ひとのぬくもりを求めてたりするのですよ。 でもリアルなつきあいは時に逃げ場がなかったりするから、 少しだけ都合の良いつきあい方って無いのかなぁ・・・

素性は隠したままひとのぬくもりを感じられる世界があったらいい。 みたいな感じ?

私の周辺の某ブロガー達はきっと、 その目論見でラジオを始めたのかもしれない。

顔も素性も知らない相手と会話するのは、 実はとても勇気がいること。 それに気を遣うし遣われるし、疲れること間違いなし。 でもそんな行動で形成されたビミョーな距離感は、 現代人には良い距離感なのだと思うのです。

ラジオだけじゃきっとダメ。
ブログがあるからラジオなのだ。
そう思えばブログは良きコミュニケーションツールなのではないか。

まだ、攻撃的な卑怯者が身近にいないからそんなことが言えるのかもしれませんが、 現代人が華麗なるスルースキルを身に着けつつある昨今。

検証を「徒党を組んで」ではなく、個人単位でする必要がありそうです。

ネット社会でも人間社会でも、 お互いの程よい距離感を知る能力があれば、 道徳の教科書に載ることは無いのかもしれませんね。

written by 日照ノ秋人  心を大きくゆさぶるイタズラは本当に悪い