ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

ラーメン屋の夢、嘘で粉々

廃業しているうどん屋らしき建物をしげしげと眺めていると、入り口の壁に「うまい!」と書いてあるシールが貼られていた。

「うまい!」はずが廃業しているので、おそらく地域の人に惜しまれながら仕方なく、歳も歳だし、親も歳だし、畳むことにしたのだろう。ということにしていたら、ふと16年程前を思い出してしまったのだ。バックトゥーザ20代!

これもうまい!

定年退職で夢を叶える

勤め先の近所の空き地に突然プレハブ小屋が設置され、文字の無いのれんと「ラーメン」ののぼりがひとつ風に揺れていた。それは凄まじくスモールなラーメン屋であり、突然の出現にとりあえず近隣住民とオフィスの諸君らは「いつかあそこへ」の小さな野望が形成された。私も仕事仲間ふたりと3人で入店しラーメンを注文したのだが、店主のおやじの動きが鈍い鈍い。そして聞いてもいないのに、定年退職し、たっぷりとした退職金で念願のラーメン屋を開店するまでの軌跡を語り始めた。出来上がったラーメンを食べ、社に戻る3人は同じ感想を胸に秘めていた。
「不味い(MAZUI★)」と。

客がいなくなる

我々の胸に秘めた感想は多くの人に同じだったようで、一気に客足が途絶えた。味で勝負する飲食店が不味いのだから仕方ない。厳しいがそれが社会というものだし、それがラーメン屋というものでもある。しかし、我々に別の角度からある情報がもたらされた。

「チャーハンは美味いらしい」

検証のために我々3人は勇気を出して再び入店した、しかも半笑いで。ラーメン屋なのに「チャーハン3つ」と屈辱的なオーダーである。 そして中華鍋を豪快に振るうおやじの手元を我々は見逃さなかった。市販のチャーハンの素を投入するのを。もうこの時点で親戚のオジサンが「何か作ってやる。チャーハン、チャーハンなら食うやろ?」の味を待ち構える状態になってしまった。食べてみると、やっぱり親戚のオジサンのあの夏のチャーハンの味だった。しかも食べている途中に我々にまずいラーメンが配られた。頼んでないよと伝えると、「えっ、そうだっけ?」などと言うおやじ。

してやったりなのかボケなのか。
またもや3人は同じことを心に思った。「どうすんの、これ」と。

結局ラーメンを少し食べ「MAZUI★」を再確認し「ごめんねおっちゃん、おなかいっぱい」と限りなくついて良い方のウソをついてラーメンを残した。帰り道に悟った。もう長くはない、と。

空き店舗

ほどなくしてラーメン屋は空き店舗となった。中を覗くと、数点ばかりの調理器具が置き去りであった。退職金で購入したのだろうか、と考えると世間の残酷さが胸にしみた。入り口を見ると、チャーハンを食べたあの日には無かったシールが貼られていた。そのシールには「うまい!」と書かれていた。赤い字で、力強く筆っぽい「うまい!」である。

誰も言ってくれなかったから、おやじが貼ったのだろうと想像した。と同時に「自分で言ってしまうのってどうだろう」と疑問も沸いた。自画自賛なのか、はたまた自虐か。その記憶が刻まれてからというもの、店主が自ら発信する「うまい!」には「まずい!」を連想するようになってしまった。

約16年前とはいえ、その想いは色あせていなかった。おそらく40代となった私の目の前にある「うまい!」のうどん屋も、盛大に「まずかった」に違いない。歳が歳とか、親も歳とか言っておいて、やはり美味くはなかったのだろうという決着を結局迎えてしまった。

自分で発信する恥ずかしさ

自ら発信する「うまい!」もそうであるが、他にも残念なことは多そうだ。私の顏に「夜はスゴい!」と書いてあるのを女子が見たらどう思うだろうか。半笑いで乗っかってみようとか思うのだろうか。ラーメン屋のおやじは追い詰められ「うまい!」を発信したのだろうが、人間は追い詰められると判断を誤るのだ。

ロシアとウクライナ

判断を誤らないよう、願うばかりである。そして、そろそろ「うまい!」のシールを両国に配っておくべきである。さて、どこに貼るのかな?