台風がやってくると小学生の頃を思い出す。
暴風警報が出れば、休みになるのになぁ。
無邪気に考えていた小学生は私だけではない。 クラスメートもまた、誰かさんの右にならっていた。
おとなになるにつれ災害というものがいかに怖いものかを知っていった。 人間は自然の力になにひとつ抗うことができないことを知ったからだ。
諸葛孔明だって赤壁の戦いで風を起こしたわけじゃない。 気象学的に風が逆の向きに吹くことを彼だけが知っていただけだ。 人間は自然の「自然な振る舞い」にただただ見守る事しかできないのだ。
自然が残した傷跡は地球に深く刻まれる。 人類が構築した建造物をなぎ倒し、がれきの山が築かれる。 大切なものや好きなものもその山のどこかに埋もれ、 泥だらけの荒野にひどく疲れた人類が途方に暮れる。
どこかで「この災害を風化させてはいけない」と言っている。 そんなことを言えるのは部外者だ。 何も知らないからそんなことが軽々しく言えるのだ。
まばたきの閃光ですべてを無くした。
自然の驚異なんてものではなく不自然な人工物によってできたそれは、 人類の最大の汚点だ。
ただでさえ罪深いのに罪を重ねる人類でさえ、 立場が違えば部外者なのだ。 そしていつものように「風化させてはいけない」とくりかえす。
嫌なことは忘れたい。
嫌なことは思い出したくない。
人類は嫌なことを踏みつけて嫌な想いをしない未来を描いて進んできた。 後ろなんか振り返るヒマなんてない。 当事者は「復興」という偶然から生まれた必然に身をゆだねるしかない。
だから前しか見ることが出来なかった。 振り返ることは出来なかった。 生き残った者は生き残れなかった者の見られなかった景色を描き、 思い出を残し、嫌な想いを風化させてきた。
残すのは教訓だけでいい。
死んでいった者たちへの手向けは、たったそれだけでいい。
今日も踏みしめる我々の一歩は、だれかの無念を踏みつけている。
自分の後の世代。
自分の子供達の世代。
いつか踏みつけられるであろう自分は教訓だけを伝えられればいい。
悲惨なものは誰が体験したって悲惨だ。
体験していないからこそ湧いてくるカッコつけの正義感なんかこれっぽっちもいらないし、
そんな想いは磨かれた本物の希望なんかじゃない。
冒頭の自分は無邪気だった。
そして部外者だった。
自分一人の力で誰かを助けられるのかと考えたらそれは無理だと悟った。 人々が協力することで少しは救われると思うが、 協力は非常事態の時だけでいい。 常日頃の協力は「ありがたみ」を薄くさせると思うからだ。
風が吹けばろうそくは消える。
消えてもまた光を宿すときはある。
人類が繁栄する意味はまだわからないが、
「まだくたばるんじゃねぇ」
と言われているような気がした。
夏の真ん中だけ、命の尊さを知る。
嫌なことを思い出して語れるのは、 頭がおかしくなるほど嫌なことを経験していないからだと私は思っている。 それか語る事が「使命」だと命懸けで思っているか、だ。
「本当に嫌なこと」は心に傷を深く刻まれる。 一生癒えることがないのだから、 思い出さないように心の隅に蓋をして置いておく。 そしてできるだけ思い出さないように生きていく。
嫌なことまで残さなくていい、 風化して良いものは風化させてしまえ。
部外者はそれを「本当に嫌なこと」とは思っていないのだから。
written by 日照ノ秋人
戦勝国が「残していない」のは、それらを「教訓」と思っていないからだと思う。