ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

小学生のテストで感じた違和感

愛知県民のわたしが千葉県に来たのだから落花生でも買おうとしたら、
「うわっ高っ!」 とひるんでしまいました。

みなさん、いい歳こいてますか?
日照ノ秋人です。

横の安い落花生を見てみたら、
「中国産」・・・
良いものは高い、だよね~。 f:id:hiderino-akihito:20181008214145j:plain

これはなにかをこたえなさい

小学校のテスト問題で落花生の絵が書いてあり、 その問題が「これはなにか・・・」でした。

わが子は「らっかせい」と答えてマルをいただきましたが、 「ピーナッツ」とかいたお友達はバツだったそうです。

私と奥方はピーナッツでもまちがいじゃないよねと共通の考え方を持っていましたが、 まわりの大人たちも我々同様 「ピーナッツ」でも間違いじゃない と思っているようでした。

後日、「ピーナッツ」と書いた子供の 親が担任の先生に意見を求めた ようなのですが、

「私の授業では「らっかせい」 と教えているのでピーナッツでは不正解」という 回答をいただいたようです。

意見を求めた親は納得がいってなかった みたいです。
※ちなみに先生の回答は、「殻付きは落花生、ピーナッツは加工品」ということでした。

なぜ納得いかないかを考えた

問題が「これはなにかを答えろ」ですから、 「何か」が伝われば正解なはずです。

その場合「らっかせい」でも「ピーナッツ」でも 我々大人たちはどちらも「何か」は 的を射ていると感じています。

しかし、先生が言う「授業では落花生」と 教えているからバツなんだというジャッジは 「これはなにか」という問題でなく 「先生の授業を聞いているか」という 問題にすりかわっているのです。

その理屈は多くの人を納得させられるのか

先生のおっしゃることはわかります。

授業は先生の話を聞くことも含めて「勉強」なのですから、 先生が言ったことを学べてるかがテストになります。

従って、先生の言った通りでない回答はバツであるというジャッジもわかります。

それでも、「これはなにか」というものを学んでるわけでもあるのですから、「なにか」が伝われば正解なのです。

「そこのピーナッツをとってよ、あたしそのピーナッツ好きなんだ」

といってピーナッツを取ってもらおうと しているのに、

「俺は落花生だと思っている、 ピーナッツとは意味不明だ、伝わらない。 したがってこのピーナッツとやらを取って 渡すことなどできないのだよ、ブワッハッハ!」

なあんて言うやつ、バチコーンですよね。

ピーナッツを「落花生」と言わなきゃ 納得しない人はどちらかと言えば 少数なように思います。

先生の言った「授業では落花生」であるから ピーナッツは不正解という理屈も 多くの人を納得させられないのではと考えてしまうのです。

何が悪いのかではないのだけれど

何が悪いかではないのですが、 しいて言えば「問題が悪い」んです。

先生の言ったことを正解にしたいなら

「これはなにか、授業では何と教えていたかを こたえなさい」

としてくれないと、目指すべき回答の 方向性が散らばってしまい、 焦点が描けません。

おそらく子供だから「焦点が描けないだろう」と思っているのかもしれませんが、 意外と子供たちはその「焦点」で迷っています。 問題が何を焦点としているかを。

テストの問題を作るのは大変そうですが あと少し、少しでいいからその問題の 焦点がわかる問いかけにしてほしいです。

私が先生なら、ピーナッツだろうがマルです。

さらに模範解答として

「らっかせい、またの名をピーナッツという」

なあんて回答されたら、マルのよこに「クール!」と 書いてあげます。

感覚的なことがバツと教えられている

最近の学校教育で思うことは 「超理屈っぽい」ことです。

最近の先生方は、典型的な 「詰め込み教育」あがりが多く、 知識と理屈で武装された、 ロボみたいな人が多いように感じます。

こんなことを言う私や、 ピーナッツで食いつく親を 「モンペ」と呼んで問題視しますが、 「モンペ」認定という定義すら 理屈によってできていますし、 その「モンペ」の対処法も理屈なんですよね。
※モンペが理屈で来るから理屈で対処するしかないんですよね。

つまり、

理屈でしか動けない大人=教員免許合格

という大量生産ロボみたいな先生が集う 教育機関になってきています。

昔の先生はもっと感覚的で、ピーナッツでもマルだったように思います。

もっと感覚的になってはどうかと思うのですが、
昔は昔で問題があった。
今はその反動でこうなのだ。
という「教師たるや」が変わってしまっているのかもしれません。

そういう「教師たるや」社会に 「こりゃついていけんわ」と思った 先生方が、塾講師とかになっちゃうんだろうなと 街にある塾の数々を見ながら思います。

おわりに

もちろん、良い先生方がいるのも事実。

良い先生がいるから、その域に達していない先生方が 目立ってしまうのです。

しかしやはり多勢に無勢。

小隊は大隊に抗えないというのが先生社会の根本のようです。
良い先生方が埋もれてしまっているですね。

先生は理屈っぽいとこきおろしながら、
あらヤダ!あたしが一番理屈っぽいじゃないか!
先生がた・・・ごめんね。


こちらもおねがいします。

hiderino-akihito.hatenablog.com