ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

子供のためのハーネスを否定する要素はない

私の子供の成長の過程。

はいはい→立つ→手押し車を利用して歩く→走る(スプリント)。

あれ、普通に「歩く」がありません。

みなさん、歩いてますか?
日照ノ秋人です。

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いきなり走り出す

言葉の発達も遅かったので、保健師さまからは「ちょっとあれかも」と言われ、 特殊学級もチラつかせられた我が子。

「よちよち歩き」など、子供のすっげえ可愛い過程をすっとばし、 いきなり走り出した我が子。

そして、いきなり走り出した我が子に振り切られ車道に・・・。

間一髪で、車にはね飛ばされず済んだのですが、 その車は幸いにも「選挙カー」だったことから、 低速だったために無事だったわけです。

危うく我が子の命と、選挙生命まで奪われるところでしたが、 その候補者の方からはあたたかく心配され、 親である我々は、懺悔として2票を投じたのでした。

ハーネスを導入

我が子が幼児のころ、テレビなどで「子供にリードをつけるとは何事か論争」が 巻き起こっていました。

当時はまだ「リード」という呼び名と「ハーネス」という呼び名がありましたが、 上で書いた事件以来、我が家の夫婦会議で瞬時に満場一致した「導入」の文字を掲げ、 そのリードとやら、ハーネスとやらを買いに出かけました。

その論争のおかげかはわかりませんが、どこにもソレっぽいのが売っていないのです。

しかし、幸運にも「リサイクルショップ」で「未使用品」を100円で購入。
我が家での耐久テストを見事パスし、採用となりました。

リュックのベルトだけの状態で、リードの様な紐がついているのみ。
全然可愛いげのない、ワンちゃんのリードと大差はありません。 (何といっても売れ残り100円ですから)
今でこそ、後ろに転倒しても頭を打たないように、完全にリュックな形で売っています。

いいなあ。

さすがにちょっと気が引ける

我が子の安全対策とはいえ、テレビなどでも「リードをつけるなんて・・・」と 言われていた時代です。

さすがに気が引けましたが、我が子がそれをつけると散歩の時間だと認識し、 「早くつれてけ」と催促するようになりました。

私の手にはリード。
傍から見れば完全に「犬の散歩」に見えるのです。

不思議なことに、それを装着すると走らない我が子。
実際導入後、リードを引っ張ることは結局ありませんでした。
まぁ、いつ走り出すかはわからないので、散歩時は必ず装備していました。

公園のzizyやbabarに文句を言われる

「紐つけるなんて!ペットじゃあるまいし!」
そういう類の言葉は2度ほど言われました。
(もっと地味にイヤミな感じでしたが)

しかし私は気にしません。

内心は、「コルァ!ボケェ!貴様が車に(自主規制)て(自主規制)ばいいのに!」

でしたが、私は争い事は好きではありません。
仏のような清い心で、黒魔術を少々やるくらいです。

我が子を守るためなら、なんでもします。
なりふり構っていられません、体裁なんか関係ないんです。

わが子を守るという事に勝るものはないのだ

浜田省吾の歌、「I am a father」の一節に

「嘆いてる暇なんてない 命がけで守る」
とあります。(PVはなかなか良いです)

以前、北海道で命を懸けて娘さんを守った父親がいました。
走れなくなった車の中で自分の体温と引き換えに娘さんを守った方です。
その方は残念ながら亡くなってしまったのですが、まさに「命がけ」で守ったわけです。

男はある意味「命がけ」ができる生き物だと思います。
すっごいバカなんだろうなとも思いますが、 昔から決闘やら特攻やら、命をかけることに意義があると 思っているんでしょうね。

だからこそ余計に「命をかけるべきか」の判断は 間違えてはいけないものだと思うのです。

ハーネスなんかつけない、私がこの手で守るのだ。

良いです、素晴らしいです。
でも、人間の仕事に完璧はありません。

ハーネスだろうがなんだろうが、リスクそのものを意識する必要があると思うんです。

マトメ

ヒヤリハット」という言葉があります。
「ヒラリマント」ではありません。

「危険予知」とも言いますが、真のヒヤリハットとは そもそも物理的にも論理的にも「起こることが不可能」のレベルで 災害を起こさない様に対策をしようというものです。

考えられる不安は取り除く。
我が子のために最低限、男ならチョチョイのチョイでやっちゃいましょう。


こちらもよかったらぜひ。

hiderino-akihito.hatenablog.com