子育てをしていると、子供はおとなをよく見ているんだなと思うときがある。
言葉遣い、立ち居振る舞いなど、大人のマネしようとする。
早く大人になりたいからなのかはわからないが、 目に見えたもの全てを吸収していまうのが子供なんである。
しょーもないことも、ね。
子供がいる前で歩きスマホをしていたり、 横断歩道から外れて車道を斜め横断したり、 子供から見て「どうかと思う」おとな、 いっぱいいますよね。
今のおとなってば、 子供に見られてるとは全く思っていないのです。
俺は俺、他は知らん。
そんな恥ずかしい大人が多いこと。
子供の方がよっぽど真面目。
よっぽど行儀が良い。
いつからこうなったかはわかりませんが、 あまりに「見られている意識」が無くないか? と思わずにはいられません。
そもそも、模範になろうという意識もない。 そんなひとが、人の上に立てるのかと言ったら、 「立ってはいけない」ですよね。
でも世の中の会社など、そんなのに限って「管理職」然としているわけです。
まぁ「俺の背中を見て育て」なあんてのも、教育放棄してるだけでただの時代錯誤ですが、 「俺の背中」以前の問題なんですね。
他人に無頓着だけど、ひとりでは生きていけない。
こんな事考えてる大人、面倒くさいですね。
この大人は見習うべき。
この大人は反面教師とするべき。
どこかのタイミングで引かれた線は、 多分一生引かれたままです。
それがたとえ、自分の親であってもそうだと思います。
子供にとって親は一番身近な「人間の見本」なワケですから、 子供には「見本となる行動」を見せなければいけないと思うのです。
ただ見せるだけではいけない。 この行動にはこういったワケがある、というところまで見せる。
見せつけるだけでなく、魅了するまででなければ教育しているなんて言えないんじゃないでしょうか。
と、いう意識で接してみても、 親の前ではいつまでたってもやんちゃ坊主なのが子供というもの。 せめて外で、親に見られていない時にだけでもちゃんとしてくれたらな~ くらいの意識の方が、親としては擦り減らなくて済むのですがね。
親の心、子知らず。
なあんて言いますが、子供に「子供の時」に気づかせるなんて無理ではないでしょうか。
子供が大人になったときに気づけばいいんです。
ただ、それまでに最善を尽くしたい。 親の生き様を見せつけたい。
ハッキリ言って親のエゴですが、 それくらいしたいものですよ。 なんせ、自分の分身みたいなものですから。
「同じ道を歩ませたくない」と思うほど、 隠すのでなく魅せつける。
そうでなきゃ、親を越えてくれないんじゃないかと思うのです。 いつまでも「子ども扱い」しないのが、親の試練みたいなものですね。
毎朝通勤電車で見かける光景ですが、 電車に乗り込むときも、椅子に座るときも、 電車を降りる時も、ず~っとスマホにしかめっ面を向けながら行動している女子高生がいるんです。
ひとにぶつかろうが、足を踏もうがおかまいなし。 なんて奴だ、親の顔が見たいわ! とも思ったのですが、その親の顔、見てるんです私。
あれはちょうど彼女が入学の際、私が乗る通勤電車に母上とふたりで乗り込んできたのですよ。
もうね、顔がソックリで。
親子だな~って微笑ましく思ったのですが、 高校生活への不安で硬直気味の娘と母。 その手にスマホは無く、いつか我が子もこうなるのかなと思っていたのですが、 割と早めにスマホを買い与えたようで、以来、しかめっ面女子高生なのである。
ひょっとしたら家で親がスマホばっかりいじっているのかな。
そんな風に思えてしまう私。
スマホが悪いんでなく、使い方が悪いだけなのに、 「スマホ禁止」としてしまいたくなる大人たち。
だけど、やはり「依存」してしまうほど、 スマホというのは危険な機械でもあると思います。
以前「遠くをボーっとながめることで時間をゆるやかにする」と書きましたが、 時間をゆるやかに自然を感じられる子供にしたかったら、 そういう「ボーっと」の姿も見せてやるべきかなと思います。
ボーっとしてる子供、最近いるのかな。
と思っている私の近くでハナクソをほじる我が子。
私そんな姿見せてませんよ?
と注意すると、「お友達もやってる」なあんて言いやがる。
まだ私の姿を魅せつけ足らないらしい。
written by 日照ノ秋人 ティッシュを使います。
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