ふにゃふにゃフィロソフィー

真の父親とは、男とは何かを考えるブログです。

決定権はあるが決断できないひとが多すぎる

お客様に「おいで」と言われて遠路はるばる出かけた私。

定期的な会議なワケだが、私はそのプロジェクトの 「ほんの数パーセント」という切れ端を担当しているため、 会議の輪に入らず少し離れた椅子にオブザーバーとして座るのが、 ここ最近では通例となっている。

本当なら行かなくていい程の「切れ端」具合なのだが、 まぁ関係各位殿に含まれるし、体裁上というお客様の配慮でしょうか。

従って、少し離れた椅子に座って眠気と戦う準備だけして赴いた。

会議に参加するスタンスとは

私は「会議」というものは、悩んでから参加するものだと思っている。

現プロジェクトの問題点を抽出し、議題を決定。 その議題を1週間前に関係各位に周知して各々が悩み、 ある程度の答えを持って集うのが会議というものだ、と思っている。

しかし最近は「みんなで集まって悩むのが会議」と言わんばかりに、 現地でお悩みのおとなたちが時間を垂れ流しているのだ。

「これはどうしたいですか?」
「逆にどうしたいと考えていますか?」
「逆にどうできますか?」

基本、これの繰り返し。

今回の会議も実際そのようになったし、会議の輪では「逆に逆に大会」が行われ、 私含めオブザーバー席の関係各位殿は「誰か決めてやれよ」と思いながら眠気と戦うという、 人生で無駄な時間を垂れ流すことになってしまった。先日のブログでは無駄な時間について書いたが、仕事場で丸腰だと何もおもしろく無いのだ。

じゃがりこでも食べながら渋いほうじ茶でも飲みたいなぁ、 と邪念を巡らせてその会議の輪を見ていると、 結局は「だれも決断ができていない」ということに気づいた。 いや、ここ10年、決断できないおとなが急増しているように思う。

プランは出る。プランがややこしすぎるのか決定には至らない。 誰も決断しない、決定までの道筋が会議の場でも出来ていない。 これって、時間の超無駄。 そりゃあじゃがりこも食べたくなるさ。

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決断できないから誰かにすがろうとする

全く何も決定されないまま流れていく時間の中で、 完全に腑抜け状態の私に、
「日照ノさんはどう思います?」
という声が飛んできた。

ん?
と思って周りを見ると、全員が私を見ていた。

私とお客様担当者は上で書いたように「会議の場で考えない」を実践しているため、 他の担当個所からは「円滑に作業が進んでいる」と思われているようだ。

実際、お客様と顔を合わせても擦り合わせだけなので、 私とお客様担当者の中では会議は既に終了しているのだが、 他の担当が決断できず決定には至らないため、 「アイツならひょっとして決断してくれるのではないか」 とでも言いたげな視線をぶつけてくるのだ。

私だって大きな部分を担当したら簡単には決断できないし、 そもそも決断するのは「お客様」なのだから、 こちらにゆだねられても困る。

決定権を持っているが決断できないひとが上流側にいると、 多くの関係各位の時間を奪う。

協力会社を使うのだから、時間は金だ。 決断できないことは、お金の無駄遣いに直結する。

1億くれたら決断してやる。

頭に浮かんだ「ボッタクリ精神」は、実は半分本気である。 外部の人間に決断を迫るということの対価としては、妥当でしょ?

なさけない上流側

本来、上流側(プロジェクトの最上位の担当)は要望を伝え、 依頼者であるその道のプロ企業がプランを提示し、 上流側の責任者が決定する。

その繰り返しで徐々にゴールまで詰めていくものだが、 今では「決定」の決断が下せない為に、時間を有意義に使えていない。

これは日本人の古来からのしみついた人間性なのかもしれないが、 決断が下せないのは簡単に言ってしまえば「責任を取りたくないだけ」なのだ。

最上流にいながら決断が下せないのは、相当痛い。

「責任を取りたくない」のに何故その企業に勤めているのだろうと疑問に思う。 給料も私よりたくさんもらっているのは、大企業に勤めているからではない。 責任の大きさが、私とは比べ物にならないくらい大きいからだ。

最近の「決断できないおとなたち」というのは、 完全に「お勉強社会」の弊害と言える。 勉強だけ出来る奴が上流にいるから、変な自己主張だけして現場を引っ掻き回し、 結局決断をくだせないのだ。

好ましい表現ではないが、組織としてヤーさん達の上流側の方が、 そういった決断のスピードは速いように思う。

なにせ、部下を束ねるという点では一般企業と変わらないし、 決断を遅らせればお縄をチョーダイしてしまうからだ。 近年のヤーさん界隈でもいざこざがあるのは、ひょっとしたら決断できない インテリのヤーさんが上流側にいるからかもしれないけれど。

ひとを束ねることができないけれど、責任を転嫁させることは出来る。 それがその場で私に向けられた視線だと思うと、 「1億くれ」って言いたくもなるさ。

家庭においての上流側

不思議なことに「父親」であることが多い。 実は裏では「母親」が操っていることが多いクセに、 責任は「父親」がとることが多い。

この図式は実は昔からそんなに変わらない。 現代人の「父親」は、そんな不条理な責任なんかとりたくないのだ。 そんなことも相まって社会で決断できないおとなが多いのだ。 って、無理やり結論づけたくなるってもんさ。

誰かが決断をくだせば、まわりからは文句を言われる。 家庭でも社会でもそう。

本来「決断を下す」というのは大仕事なのだ。 そこが尊重されないからだれも決断を下せなくなる。

決断を下せないで垂れ流した時間=金は、 プロジェクト開始前の見積もりを大きく上回っていることだろう。

それすら後になって反省しないのでは、 今のやり方が改善される可能性はない。 従って、決断を下せるひとに「1億」を用意しておくことを オススメする。グフフ。

みんな、やれば出来る事なのに出来ないのは情けない。 一部教育機関では「リーダー教育」なるものもあるが、 人を前向きに動かすことを教育するものなら、 今後はおおいに必要かと思う。

まぁ、社会に出て立派な先輩達に出会えれば 勝手に身に付くものなのだが、「立派な先輩諸君」がいないものだからそんな教育機関に期待してしまうのだろう。

人を動かすのではなく「前向きに動かす」のは大変な技術。 勉強で得られる知識よりも大事なことだと思うのになぁ。

written by 日照ノ秋人
下された決定に文句を言うのは卑怯だよ。


 
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